退屈な猫の独白と、友達との会話。


 夏の終わりの温い風に吹かれて、あくびを一つ。
 いつものように縁側で寝そべっている俺は、どうやらとても忘れっぽい。
 自分が雄猫で灰色の毛をしていて、目は自身を表したような薄暗い茶色、そして、愛想も愛嬌もその上主体性も自主性もないとても面倒な性格をしていることも認知している。
 他のことは最初から知らなかったりすっかり忘れてしまったかだ。忘れたことは仕方がない。きっと今の生活には必要のない項がずらりと並ぶであろうから。
 俺は、脱力して投げ出した脚に力を入れてのろりと起き上がり、そのまま伸びをした。意識しなくともまた大きなあくびが出て、息を吸い込んだついでに溜息をつく。
 退屈なのだ。
 昔の自分がやるべき物事としていたものも思い出せず、今もそれは何一つ見つからない。やるべき物事がなくても生きていける身ではあるが、あまりに退屈なのも酷というものだ。
 起きて、食べて、寝る。今の俺の生活は、まさに“食っちゃ寝”である。
 幸い食は乏しくなく、栄養は摂れていて、時折運動もするから酷い運動不足や肥満でもない。それでも退屈が過ぎて、俺は何のためにここにいるのかだとか、俺は死ぬまでこのままなのかなどと考えてしまう。
 特別暗い話でもない。特別不快でもない。そんな我侭な俺を、世の中の不幸な猫達はどう思うだろうか。
 俺が何歳なのかはわからないが、俺よりずっと若くして亡くなる猫は多いだろう。実際、過去に交通事故や飢えや喧嘩の怪我とやらで死んでいった知り合いはいた。だが、知り合いと言っても、一度見かけただけであったり少し挨拶をしただけの他人に近いものであった。そうだからか、その猫がふといなくなっても、ああまただと思うばかりで、悲しいだとか寂しいだとかの感情は生まれはしなかったが。
 そんな不幸な猫達が、食事も寝場所もあり怪我もせず暮らしている俺が退屈で堪らないと言ったら、きっと傲慢だと言うだろう。それでも、生きる意味を見出せないことが辛くあるのは変わらない。
 退屈を抜け出したいという、叶わぬ我侭だ。
 俺は考えるのをやめ、もう一度溜息をつく。気だるいような体を動かし、何時からか調子が悪い右後ろ脚を引きずって自分より何倍も大きな影に近寄っていった。
「おい」
「ん、何だ? お腹空いた?」
 低い声で鳴いた俺に反応し、ふにゃりと笑って返事を寄越すのは、若い男。名前も、年齢も知らない。だが、おそらく猫が好きなのだろう。時折、縁側で寝そべる俺を見て、目を細め微笑んでいるから。
 俺はこの男に養われている。俺の名前も付けられてはいないし、飼われているとはまた違うそれだ。野良の俺に、縁側という睡眠の場所を貸してくれていて、腹が減れば飯も与えてもらえる。
 ありがたい話だ。庭で倒れていた俺を見かねて助けてくれたらしい。そのことについては感謝してもしきれない。
 唐突に、先程まで考えていたことをこの男に尋ねてみようかと思った。
「お前は自分がここに存在する理由がわかるか」
「……? 何だろ、いつもより不機嫌かな」
「俺はわからない」
「……遊ぼうか?」
 お互いに意味を理解できない言葉を投げつけ合う。これは毎度のことであるが、元より不機嫌だった俺は無性に苛立ちを覚え、目の前にあった男の手に齧り付いてやった。無論、手加減はしている。
 いてっ、と手を引っ込める男の膝の上にひょいと飛び乗り、続けて腹に思い切り頭突きをくらわせた。とんだ不理屈な攻撃である。
 そろりと男の様子を伺うと、眉を八の字にしながらも笑っていた。
 何故笑うのだろう。こちらは攻撃しているのに。
「可愛いね、お前は」
 かわいい。何度か聞いた覚えのある響きだった。
 男は度々その言葉を俺に向かって言うものだから、自分を指して言っているのだろうとわかる。かわいいとはどういう意味なのかは知らないが、かわいいと言って男は笑っているのだから、きっと悪い意味ではないだろうが。
 自分が悩みに悩んでいるのに、唯一自分を認知してくれている大きな存在の男が、何もわかってくれない。言葉や思考さえ通じない。それが腹立たしくて、闇雲に攻撃してやった。
 その結果、男は俺をかわいいと言って笑うのだ。特別不快に感じた訳でもないが、複雑だった。
 やはり、猫と人間ではわかり合えないということの表れだろう。
 俺は男に背を向けて一瞥してから、部屋の隅に置いてある小さな箱へと向かった。
 背に男の視線を感じながら、鼻の頭でくいと箱の蓋を開け、中から玩具の魚を取り出す。噛み付いたり手で押し潰したりすると、耳に障る高い音が鳴るものだ。
「あ、やっぱり遊びたいんだ」
 男は、八の字になっていた眉を戻し、今度は心底嬉しそうに笑った。
 何か違う。勘違いしている。お前が遊びたそうにするから、俺が仕方なくお前と遊んでやるんだ。何もする必要がないのなら、何もしたくない。
 魚の玩具をくわえて男のもとへ戻りながら、行動とは裏腹な思考を巡らせた。




 気分が悪い。まだ、あの玩具の魚の高い音が耳に残っていた。あの音は嫌いだ。頭を何かで殴られているように痛む。
じゃあ他の玩具で遊べば良かったじゃないかと、少し前の自分に悪態をついた。
 玩具で遊ぼうが、柄にもなく男に擦り寄って甘えようが、逆に苛立ちをぶつけようが、ぽかりと穴が空いたような寂しさは埋まらない。
 この大きいようで小さいような悩みは、今に始まったことではない。男としばらく過ごしていて、ある日ふとその問題に思い至り、悩み始めたのだ。今日までだって色々な方法を試した。
 しかし、全て意味を成さなかった。何をしても無駄なのだろうか。それはないと信じたい。いずれにせよ、容易にはいかないということだろう。
「!」
 唐突に聞こえた草が擦れる音に顔を上げる。庭の草陰に、淡い栗色がちらりと見えて、消えた。
 何だろう、野良猫か? 野良犬か?
 気になって縁側から地面へ飛び降り、栗色が見えた草陰へ行ってみるが、そこには既に何もいなかった。ただ、何やら鼻をくすぐるような懐かしい匂いが残っていただけ。
 何だったのだろう。野良猫や野良犬なら今までも見かけたし、気にすることでもないだろうか。
 一体あの懐かしい匂いの正体は何だ。ただの野良猫や野良犬が、あんな匂いをしているだろうか。
 あんな匂い。
 それは懐かしくて、甘くて、柔らかい――自然に作られたものではなく人工の匂いではあろうが、それでもどこか土と草の匂いがするような。
 ………………。
 考えられるか? そんな、人工物と自然物が混ざったような匂い。少なくとも、今の俺はそんな匂いを発する物体を知らない。では何故懐かしいと思うのか、それはわからないけれど。
 ――――頭が痛い。あの玩具の魚の高い音がまた頭に響いた。




「いってきます」
 後ろでいつもと変わりのない男の声が聞こえ、返事の代わりに尾を少し揺らした。男の家の雨戸が、立て付けの悪い音を立てて閉められる。俺は、相も変わらずに縁側でぼうっとしていた。
 男は、平日昼間はいつも働いていた。仕事に行く時は決まって“いってきます”と言う。それが仕事が始まる合図なのだと、しばらく男と過ごしてから覚えた。
 人間の仕事がどんなものかは知り得ないが、猫が縄張りを持ってその中で餌を捕るように、きっと人間にも必要不可欠なものなのだろう。どうやら、“おきゅうりょう”というものを貰って、それで自分の服や食べ物、俺達猫の食べ物も手に入れることができるらしい。
 暑い中、休むことなく男は仕事へ出かける。暑さで倒れたりしないのだろうか、この暑さの中で仕事をしているのだろうか。いや、世の中には部屋の温度を調節できる便利なものがあるから、それはないか。毎日疲れて帰ってはくるが、倒れそうだったり死にそうだったりしたことはないし。
 仕事から帰ってきて疲れた顔をした男は、俺を見ると安堵の表情を見せ、それから決まって“ただいま”と言う。あの安堵の表情の理由はわからないが、ただいまというのは仕事が終わった合図だと覚えている。
 重そうな鞄を置いて、首に巻いた布を取って、その次に男は真っ直ぐ俺に向かってくる。あまりに嬉しそうに手を差し出してくるから、その時だけは俺も大人しく撫でられてやるのだ。
 それも、退屈な毎日の例である。
 ……さて、今日は何をしよう。寝るか。それとも、この間のようにこの生活をどうにかすることを延々と考えようか。
 そんな下らない選択肢にいくらか悩んだ末、また考えることを決めた。
 この間は自分が我侭だとか知り合いの猫がどう思うだとかを考えたが、今日はこの状況から抜け出すための具体的な案を考えることにする。無論、具体的な案というのも、今まで考えては色々なものを試して空回りしたりしてきたが、もう一度だ。杜撰な考えでどうにかできる問題ではない。真面目に、ゆっくりと考えよう。
 退屈から抜け出すのは、容易に思えてそう容易ではない。少なくとも、俺には難しい問題だ。
 根本から考えると、退屈から抜け出すには、まずやらなくてはいけない物事を見つけなくてはならない。やるべき物事が見つかれば、それに追われて少しは退屈を凌げるだろう。
 では、やるべき物事を見つけるにはどうすればいいかだ。
 俺は今、生きるために十二分の待遇を男に受けていて自分が何かせずとも生きていけるような状態だが、この家を出て完全な野良に戻れば食も場所も全て自力で見つけて管理しなくてはならなくなる訳で、やるべき物事ができる。
 これが、今の生活から抜け出す一番手っ取り早い方法だな。
 だが完全な野良になるとすれば、長い間この家でぐうたらとしていた俺には荷が重い環境に出て行くこととなる。餌が潤沢でもなく、怪我の心配や、命の危険だってある。それはあまりに酷だ。野良はそう容易には生きていけない。
 もし知り合いがここにいたのなら、退屈だから、という理由でこの幸せな環境を出て行こうとする俺を必死で止めるだろう。何を馬鹿なことを言うんだ、と。
 それに、俺だってあの男と別れるのは少し惜しい。俺がいなくなったら、あの男は“いってきます”も“ただいま”も言う相手がいなくなってしまう。この古い家に一人になってしまう。
 ………………。
 この案はひとまずおいておくか。
 次だ。ここにいることができて、退屈が凌げる案……。
 ふと、あの玩具の魚が思い浮かんだ。
 玩具。玩具か。あれは元々退屈を凌ぐために作られたようなものだし、ぴったりではないか。玩具なら男にねだれば貰えるだろうし、それ程の苦労も必要ない。何故今まで思いつかなかったんだ。ああ、しかしきりが無いな。
 新しい玩具を手に入れても、遊んでいればいつかは飽きる。飽きたら、また次の玩具を手に入れたくなる。ずっとそれか。嫌だな、玩具の場所に困るし、男の金銭問題もあるし。
 折角良い案が浮かんだと思ったが、やはり駄目だ。今まで思いつかなかったのではなく、思いついてもすぐ駄目だとわかり、忘れていただけかもしれない。
 ――――寝よう。
 考えるのをやめて、目を瞑った時。どこかで聞いたような、草が擦れる音。微かに、懐かしい匂い。
 俺は飛び起き、脚の痛みも忘れて脱兎の勢いで音のした方へ駆けた。
 視界の端に見えたのは、あの時見た淡い栗色と、もう一匹、雪のような純白。塀の割れ目を通って庭から出て行くところだった。あの時と同じ、懐かしい匂いを残して。
 あれは、猫だ。猫が二匹。この庭を通り道にしているのかもしれない。
 今度、見つけたら。……見つけたら? 何だ、俺は何をしようと言うんだ。
 別に、この庭を通り道にされようが住まれようが俺には関係ない。敵意も何もないのに、どうしても会って聞かなければならない気がした。その聞かなければならないことも、わからないのに。
 白は、違う。栗色の猫。
 淡く、陽光に当たれば溶けてしまいそうな柔らかい栗色。その色には、どこか見覚えがあったのだ。
 ――今更じわじわと感じられてきた脚の痛みが、うっとおしかった。




「いってきます! 今日はちょっと遅くなるかも」
 その日は、やけに男が楽しそうだった。いつもより少し高い声で“いってきます”と言い、“おそく”とも言った。仕事から帰るのが遅くなると言っているのだろうか。
 いつもは、空が暗くなってしばらくすると帰ってくるのだが、今日はどれ程で帰ってくるのだろう。あまり遅いと腹が減って嫌だな。
 それにしても、鼻歌を歌って足取りは軽やかで、なんともご機嫌なものだ。今日は一体全体何の日なんだ?
 そう尋ねても、言葉が伝わらないのではちゃんとした答えが返ってくる訳がないから、理由を聞きに玄関まで行くのはやめた。
 嬉しいのなら良いだろう。悲しまれるよりは幾分ましだ。
 玄関扉を閉める音が、いつもより大きく響いた。
 と、そこで気付く。
 いつもは男が仕事に行く時締め切るはずの雨戸が、開いていたのだ。どうやら浮かれ過ぎて戸締りを忘れたらしい。いくらここが田舎であっても、こうも豪快に雨戸が開いていては無用心が過ぎる。
 今から走って知らせに行こうとも、男は自転車で通勤するから、猫の足では追い付けるはずがなかった。
 溜息を吐きながら立ち上がり、雨戸の前に立つ。
 爪を出して雨戸の端に引っ掛け、引っ張る。だが、立て付けが悪いものでつっかえて動かない。爪が痛いなと思いながらも、今度は力一杯引っ張った。するとつっかえが外れたらしい、ガラガラと音を立てて片方の雨戸が閉まった。もう片方は案外滑りが良く、容易に閉まった。
 一仕事終え、息をつく。
 全く馬鹿な奴だ、あの男は。俺がこんな風に閉めてやったとしても、鍵は掛かっていないしどちらにせよ無用心じゃないかと思う。それに、今日は帰りが遅いと言うし、殊更危ない。
 仕方ない、この雨戸の前で陣取って番をしてやるとするか。
 大きなあくびをして、鍵の掛かっていない雨戸の前でごろりと寝返る。寝転がったまま、手足をうんと伸ばした。
 最近は考え事ばかりしていたから、何も考えずに風に当たって眠りこけるというのが心地良い。
 ――――そのとき。
 ふわり、と、あの匂いがした。
「ねえ」
「……は?」
 目の前の地面に、あの淡い栗色の猫がちょこんと座っている。
 今まで数回目にしたその栗色猫は、目の前にするとかなり品が良さそうな猫だった。まあ、遠目で見ても品が良さそうであったが。
 間近で見る滑らかな栗色の毛並みと、こげ茶色の大きな目、綺麗に整った髭。首には鮮やかな赤色をした首輪があり、その装飾にはキラキラと光る宝石のような物まで付いている。
 態度もどこか落ち着いているようで、一目見て、こいつはいいとこの坊だな、と思った。
「久しぶり、変わってないね。覚えてる? 僕のこと」
「……いや、知らない」
「……そっかぁ」
「久しぶり」。そう言った栗色猫は、俺の素っ気無い返答にそれ程驚くことはなく、ただ少し困ったように笑う。その表情にもどこか懐かしいような雰囲気はあったが、どうしても懐かしさの核心までは辿り着けないものだった。
 そうだ、俺は……こいつに、聞かなければいけないことがある。
「少し、懐かしい気はする」
「本当? じゃあ、ちょっとだけでも覚えてるんだ」
 ぱぁっと顔を輝かせた栗色猫。勘違いでぬか喜びされては困ると、少々慌てて言葉を付け足して、次いで自分のことも聞いてみることにした。
「詳しくは知らん。……お前は、俺を知ってるのか」
「うん、知ってるよ。君は、セイっていう名前」
「……へえ」
 聞いたこともない名前を挙げられて、実感も何も湧くはずがなく、適当に返事をする。
「あ、信じてない」
「信じるも何も、俺は名前なんて無い」
「あったんだよ」
 思えば、久しぶりの“通じる”会話だ。いつかに、こうやって誰かと親しく話していたような気がしないでもない。
 栗色猫は、その大きくまん丸とした目をくりくりと動かして、言葉を続けた。
「今日は迎えに来たんだ」
「迎えに? 何だ、俺みたいな必要性のない奴はすぐ天国にでも行けと」
「冗談言わないでよ、前にだって――」
 自分を嘲るように言うと、栗色猫は心底不快そうな顔をした。「前にだって」。そう言いかけて、栗色猫は俯いてもごもごと言葉を濁らせる。
 何なんだよ、という意味を込めて少しキツい目で見下ろすと、栗色猫は何でもないと頭を振る。暗くなっていた表情をころりと笑顔に戻し、自己紹介を始めた。
「僕はマロン。少し前――ううん、昔、君の友達だったの」
 明らかに話を逸らされたのにはあえて触れず、大人しく話を聞いていることにする。
 マロン――すなわち、栗。この栗色を見て思うことは皆同じらしい。それにしても英語とは、洒落た名前だ。俺は、こんな洒落た坊と友人だっただろうか。
「ねえ、ちょっとそこまで来てよ。色々話すことがあるから」
 そんな唐突な誘いに少し戸惑いつつ、強制かと尋ねる。栗色猫……いや、マロンは、目をぱちぱちと瞬かせた後、困ったように笑って首を横に振った。
「そうか」
 このマロンは、ここ数日気にかかっていた懐かしい匂いの主だ。聞きたいことだって、きっと沢山ある。話したいのは本望だ。
 男の家も、少し空けるくらいなら問題ないだろう。
「……わかった、行こう」
「うん、ありがとう。すぐそこの公園だから」
 どうするべきか少し悩んだ末、俺はマロンについて行くことにした。
 こいつは、俺の重要なことを握っている気がするのだ。俺がやるべき物事も、すっかり忘れてしまった昔のことも、全て教えてくれそうな、そんな気が。
 上品に歩き出すマロンに続き、庭の塀の割れ目を潜り、狭い小道へ抜けた。
 割れ目を通る時に体がつっかえて、無理やり押し通ったら毛がいくらか抜けたというのはこの際気にしないでおく。
「折角綺麗な灰色なのに、抜けちゃったね」
 俺の失態に苦笑しながらマロンが言った。
「灰色が綺麗なもんか。薄汚いだけだろ」
「あはは……、昔と言うこと同じ」
 昔の話と今の話、下らない会話をして、気まずい沈黙もあり、しばらく歩いて開けた道に出た。
「セイ」
 マロンが立ち止まる。俺は歩みをやめなかった。
「セイ!! 危ないよっ」
 大声に驚いて立ち止まる。
 と。
「……っ」
 耳をつんざく高い音が連続して聞こえ、目の前を巨大な何かが猛スピードで走り抜けていった。
 あともう少し進んでいたら、あの何かに吹っ飛ばされるか潰されるかだっただろう。どちらにせよ、今頃命はないに違いない。危ないところだった。




 耳をつんざく高い音。何かが地面を擦る音。何かが潰れる音。
 ――――――セイ!!
 友人の声。




「セイったら呼んでるのに何で反応しないのさ。焦ったよ」
 ああ、そうか、俺はセイという名前だったか。呼ばれているのに気付かなかった。注意してくれていたというのに申し訳ない。
 そう謝ると、危なっかしいのも変わらないと苦笑された。
 聞いていると、マロンの言う昔と何ら変わらないんだな、俺は。見た目も、性格も、危なっかしいのも、その頃のままなのだろう。今だに昔のことは思い出せないが、俺が思い出せないいつかに、このマロンとこんな風に歩いて話して、苦笑されていた気がする。こうやって危ないところを注意された気さえする。
 猛スピードで走る巨大な何か、猫同士の喧嘩、飢えと空腹。こいつが隣にいないと、俺はいつだって危なっかしかった。だから、こいつは俺を心配して、いつだって隣にいてくれた。
 確信がある訳ではなく、そんな気がするだけだが。
「おい」
「わっ、びっくりした。何?」
「……ありがとう」
「うん? あ、さっきのこと? いいよ、何もなくて良かった」
「……、ああ」
 先程初めて話したとは思えない。ずっとこうして話しながら歩いていたような、そんな感覚があった。
 マロンの長い尾のように、ちらりちらりと何かの影が頭の中で揺れ動くようだ。捕まえられそうで捕まえられない、もどかしい距離にそれはある。手を伸ばしたら、あの耳に障る高い音が鳴って邪魔をするのだ。
 俺にはどうしようもできない。待つしかないんだろうな。
 考え事をしていた間に、目的地の公園近くまで来たらしい。マロンの後ろについて、道から枯れ木や蔦を伝って塀に上り、その向こう側へ飛び降りた。




 公園の敷地内に入ると、酷く懐かしいような感覚に襲われた。俺はここへ来たことがあると、そう確信できる程の感覚だ。
 懐かしさに我を忘れてぼうっとしている俺を見て、マロンが顔を綻ばせる。やはり、昔の友人として、俺が昔のことを思ったり思い出したりするのが嬉しいらしい。こっちだよ、と俺を誘う声も、心なしか弾んでいた。
 マロンに促されるままに歩を進めると、そこは色彩豊かな花々が咲いた花壇だった。夏に相応しい彩度が高い色の花が、我を見よと言うように胸を張っている。
 その眩しさに、マロンも俺も目を細めた。
「綺麗だけど……、残念。あれは咲いてないなぁ」
 目を細めたまま、ぽつりと呟くマロン。
 あれ、とは何なのだろう。咲いていないと言うのだから、何かの花ではあると思う。昔は咲いていたけれど、今はもう枯れてしまったのだろうか。咲く季節ではないのかもしれない。
 その正体を尋ねる前に、マロンの方から教えてくれた。
「薔薇っていう花だよ、君が好きな花だったんだ。昔は一年通して赤色白色黄色っていっぱい咲いてたんだけど……いつの間にか、咲かなくなっちゃった」
 薔薇という花の解説に、へえ、と素っ気無い返事をして、花壇へ向き直る。今咲いている花の中には、名前のわかるものは一つも無い。今は花になど何の興味も持たないけれど、昔の俺はその薔薇が
 好きだったように、花に興味があったのか――それとも、薔薇に何か特別な思い入れがあったのか。
 昔は咲いていたのにいつの間にか咲かなくなったというその薔薇は、ひとりでに移動していなくなるものではあるまい。おそらく、マロンが見ぬ間に人間が植え替えたのだと思う。
 心地良い風に吹かれて揺れている花々の香りの中で、少しだけ感じられる懐かしい香りが鼻先をくすぐっていった。




 俺は、ダンボール箱から逃げ出した。逃げ出して、追ってくる何かからまた逃げ惑う。
 まだ日は昇りきっていないというのにじりじりと照りつけて体力を奪っていく日光が、酷く恨めしかった。
 周りの草陰に、いくつもの気配を感じる。
 それでも、まだ走る。
 気配が、すぐ捕って食われそうな程近くに感じられた。伸ばされた腕と爪を間一髪でかわして、後ろ足で精一杯地面を蹴り上げた。
 目の前の大きな茂みへ転がり込む――と同時に、全身が爪で引っかかれたような痛みに襲われる。まだ幼く、痛みに対しても無知な俺は、それで死んだかとも思った。
 恐る恐る周りの様子を伺うと、その痛みは自分が飛び込んだ茂みからくるものだったらしい。周りは、ちょっとでも触れると痛そうな棘だらけ。目の前に一際大きく鋭い棘があったものだから、俺は思わずぎゅっと目を瞑ってその場で縮こまってしまった。
 先程まで俺を追い掛け回していた、ここ周辺を縄張りにする猫達の声が聞こえる。
 その猫達は、この茂みが“痛い”ことを知っているらしく、しばらく茂みの周りをうろついた後に、諦めたのか去って行った。
 恐怖に早鐘を打っていた鼓動は、段々と落ち着きを取り戻していく。
 しかし外に出ようと少しでも動くと棘がちくちくと刺さり、例え外に出られたとしてもまたあの猫達に見つかるかもしれないというこの状況下で、行動を起こそうとする勇気はまだ湧いては出てこない。
 大人しくというより畏縮するように、震えながら自分が落ち着くのを待っていた。
 いくらか時間が経って、どうやら日が空の真上まで昇ったらしい。茂みの中はむっとして暑く、葉の隙間から射し込んでくる日差しが目に入って痛い程だ。
 喉が渇いていた。頭がぐらぐらと揺れるようで気持ちが悪い。思うように脚が動かなかった。出ようとすれば出られるはずだった茂みから、動けなくなってしまったのだ。
 助けを呼ぼうにも、声を上げて、あの猫達に茂みから引っ張り出される訳にもいかない。
 焦った。このまま猫の干物になってしまうのではないか。そんなのは嫌だ。こんな所で干物になってたまるものか。
そう焦れば焦る程息苦しくなって、気が遠くなる。
 ――駄目かもしれない。そう思った。実際、駄目だったのだ。自力ではどうにもできずに、意識は闇へと落ちていった。




「思い出すこと、ある?」
 公園に備え付けられていた水飲み場で水を飲みながら、マロンが尋ねてきた。やはり目的は、友人だった頃の俺の記憶を取り戻すことらしい。
「……ああ、少し」
 マロンの言う通り、先程から、曖昧な懐かしさが形になってきている。そんな気がするだけではなく、確信が持てる記憶になってきているのは確かだ。
 俺は何らかの原因で、昔のことも、自分のことも、やるべき物事も、忘れてしまっていたのだろう。きっと、この記憶を追っていけば本来の自分が見つかる。
 いつからかあの男の家にいた理由もわかるはずだ。
「そっか、良かった。……本当は僕が全部話せば早いんだろうけど」
 いや、今マロンに全てを話されて、例え全て思い出せたとしても、俺は混乱してしまうだろう。確かに記憶はあるのに、信じられなくなってしまう恐れもある。
 だから、少しだけ背を押して待つというマロンの判断は、正しいと思う。
 そう言うと、マロンは照れ臭そうに笑った。優しいのも昔と同じだと呟きながら。
 俺は決して優しくなどない。周りがどうなろうとどうでも良かったし、自分のことでさえそう思う程だ。いや、ただ単に面倒臭いと思っただけなのかもしれないが、お世辞にも優しいなどと言えた性格ではなかったのだ。
 むしろマロンの方が優し過ぎると思うが……そう考えたが、言うのはやめておいた。どうも、相手を褒めるのはあまり得意ではない。




 草が擦れるような音がして、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。まだ、外は明るいようだった。
 明るい外と茂みの中の境目に当たる場所に、陽炎のように揺れる淡い栗色が見えた。
 猫、だろうか。
『ねえ、君大丈夫?』
 中性的な声。物腰柔らかで、それと同じように柔らかそうな毛並み。
 その栗色猫は、こちらを見て続けた。
『……出られる?』
 その問いにゆるゆると首を横に振って答えると、栗色猫は、見るからに痛そうな棘があるというのに躊躇わず茂みに入ってきて、俺の首辺りをくわえて外へ運び出した。
 見た目は華奢なのに案外力持ちだな、と率直な感想を頭の中に浮かべながら、外の心地良い風に目を細める。どうやら干物にはならずに済んだらしい。
 気分が悪いのには変わりないが、外に出られたことと、栗色猫が敵ではないらしいことに安堵を覚えた。
 少し移動した後に下ろされたのは、ひんやりとした金属の格子の上。俺は、詰まっていた息を吐いて、思い切り外の空気を吸い込んだ。ぼうっとしていた頭がはっきりとしてくる。
 ああ、生き返った。本当に死んでしまうかと思った。
 そんな危機にあった俺をここまで運んできてくれた栗色猫にお礼を言おうと上を向いた、その時。
『ぶわっ!?』
 突然、頭上から出所のわからぬ大量の水が降ってきた。上を向いていた俺はその水をまともに被り、目やら鼻やら口やらに水が入って、たまらず咳き込んで頭をぶるぶると振るう。
『わ、ごめんっ……!』
 そう謝る栗色猫の声もまた、上から降ってくるではないか。不思議に思って水を避けつつ見上げると、水は頭上の金属の筒から真っ直ぐ地面へ流れ落ちているらしい。その上にはやはり栗色猫がいた。
 何やら、筒の上にくっ付いたバツ印のような金属を器用に回して水の量を調節しているみたいだ。
『凄く体が熱かったからさ。冷やそうと思って』
『だからっていきなり水かけるこたぁねぇだろ!』
 ついつい怒鳴った俺に栗色猫は怪訝な顔をすることもなく、困ったように笑ってもう一度ごめんねと謝ってきた。そして改めて、水で体を冷やすことを薦めてくる。
 先程まで滝のように流れていた水は、栗色猫が調節したらしく、ちょろちょろというような弱い流れに変わっていた。
 折角だからとその水を頭から被って、熱を冷ますことにする。最初に顔面に被った時は外気の暑さの所為で温かった水も、流している内に冷たくなっていて気持ちがいい。
『……ありがとう』
 水を被りながらぼそぼそとお礼を言う。
 栗色猫は嬉しそうに顔を綻ばせ、どういたしましてと言った。
『僕はマロン。君は?』
『…………セイ』




「……ああ、思い出した」
「え!」
 木陰で休みながら物思いに耽っていたところ、不意に声を出したのに驚いたらしい。それに、思い出したという内容も内容だ。マロンが素っ頓狂な声を上げた。
 その裏返った可笑しな声に笑いそうになるのを堪えて、思い出したことを話すことにする。
「お前と会った時のことと、自分の名前と、お前の名前。確かに俺はセイで、お前はマロンだった」
 短い文章で済ませられるそれも、マロンにとっては狂喜乱舞しそうになるようなものだったらしい。こちらをじっと見つめて神妙に話を聞いていたその表情は、ほろりと崩れて笑顔になる。
 そして、次いで大粒の涙までほろりほろりと零れていくではないか。
 突然泣き出した友人に戸惑いを隠せずに、目線を泳がせてはどう言葉をかけたらいいものかと頭の中の辞書を必死で捲った。
 にゃあにゃあという泣き声は止まらずに響き続ける。




 橙色が水色を押し上げて、じわじわと空を覆っていく時刻。
 公園の大きな杉の木の下で、俺はまた鼻を啜っていた。
『セイ!? どうしたの、何で泣いてるの?』
 毎度のことにも関わらず、マロンは泣き声を聞くと飛ぶようにやってきて心配してくれるのだった。
 そして、俺もそんなマロンに甘えていたんだ。
『ひっぐ……でかい、トラ猫……叩かれた……えぐっ、ばしーって!』
『……! あいつか……!』
『いた、かった……』
『よしよし、痛いの痛いの飛んでけ』
『…………』
『泣き虫さんへおまじない』
 あのおまじないに、期待して。




「……痛いの痛いの飛んでけー」
 やっとのことで頭の中の辞書から相応の言葉を見つけ、それを口にした。毎度毎度、マロンが自分へかけてくれていた言葉だ。
 これでよしと安堵を覚えつつ、声をかけてからぴたりと泣くのをやめたマロンを見守った。
「ふはっ」
「……は?」
 マロンが口を開いて発したのは、予想しなかった声。笑い声。
 涙がまだ滲んでいる目のままで、ころころとそれは可笑しそうに笑った。
 何がそんなに面白かったんだ。俺は何か変なことを言っただろうか。それとも、おまじないが効き過ぎたとでも言うのだろうか。
「僕は別に、どこも痛くないよ。それは、相手がどこか痛がってる時に使ってあげるの」
「……えっ」
 今度は俺が素っ頓狂な声を上げてしまった。マロンは、殊更面白そうに笑う。
 笑いながらも説明してくれたマロンによると、この痛いの痛いの飛んでけというのは、元々人間が使っていたのを見てマロンが使いだしたものらしい。
 公園で転んだ子供に母親がそう言って、子供が涙を堪えながらも立ち上がり、母親に手を引かれていく。そんな光景を見て、何だか心が温まったのだとか。俺にはよくわからないが、俺が痛い思いをしている時にマロンがそう言ってくれると、涙も引っ込むような気がした。
「それも思い出したんだ」
「お前のお陰でな」
 間違いを笑われた仕返しにと、盛大に嬉し泣きをしたことを揶揄して言ってやった。
 まあ、それも笑って流されて、ほぼほぼ無意味な結果に終わったが。




「マロンさん?」
 マロンと思い出したことを話していた最中に、草陰から鈴を転がしたような可憐な声がした。
 突然のことに俺は思わず身を硬くし、声が聞こえた方を凝視する。
 少しの間をおいて草陰からひょこりと姿を現したのは、いつか目にした、雪のような純白の毛並みをした猫だった。首には、マロンと色違いの緑色の首輪。
「あ! 小雪ちゃん!」
 名を呼ばれたマロンは、純白猫に親しそうに寄っていく。小雪と呼んだその猫は、やはり知り合いらしい。
 俺は、少し体の力を抜いた。
「泣き声が聞こえたので見にきたんです。……お怪我などございませんか?」
「うん、大丈夫。お恥ずかしながらそれは嬉し泣き」
「嬉し泣き……と言うと?」
 首を傾げる純白猫に、マロンはほら、と体を退けて、純白猫に俺を見るよう促した。
 純白猫は俺を見るや黄金色の目を見開いて、二、三度ゆっくり瞬きをする。
「……セイ、さん?」
「そう、セイだよ! 今日連れてきたんだ! それでっ、昔のことも思い出してくれたの!」
 静かに驚く純白猫に、捲し立てるように説明するマロン。
 俺は、目にしたことのない美人を前にしてぼうっとしながらも、この純白猫が記憶のどこかにいないかを頭の中で探った。
 が、その新雪のような白さは、記憶の中には見当たらなかった。それに、以前にも感じたことだが懐かしい匂いもしない。
 なんだか、「本当にセイさんなんですね」と笑って再会を喜んでくれている純白猫に、申し訳なく思う。
 黙っているのもなんだと、渋々その由を伝えた。
「あの、……俺、覚えてない」
「え?」
 純白猫の嬉しそうな表情が、それを聞いてきょとんとしたものに変わる。
 沈黙の重さを感じながら、少し言ったことを後悔したり、いやこれで良いんだと思ったり、この次はどう言えばいいんだとか、慌しく頭を回転させた。
「セイさん。それは仕方がないです、だって私とセイさんは今回がはじめましてですから」
「え?」
「ふふ、お噂はマロンさんから聞いていましたよ。改めまして、小雪と申します。以後よろしくお願い致します、セイさん」
 これは一体どういうことだとマロンを見ると、何やらでれでれとした表情で話し始めた。
 曰く、本当に小雪と俺はこれが初対面らしい。では何故小雪が俺のこと――見た目までもを知っていたかというと、前々から友人だったマロンが小雪に会う度俺の話をしていたからだとか。
 灰色の毛並みに暗めの茶色をした目。知り合って間もない頃は無愛想だったけれど、本当は誰よりも周りのことを考えていて優しい。自慢の友人だと。
「…………」
「とっても素敵な方だとお伺いしてました」
 小雪がふんわりと俺に微笑む。
 その途端に心臓が跳ね上がった。顔にじんわりと熱が集まるのがわかって、恥ずかしいことこの上ない。
 ……いやはや、これは。
「成る程、セイも美人には弱いんだ」
「うるせぇよ」
「…………」
 美人と言われたのが恥ずかしいのか、小雪も赤くなって俯いてしまった。
 長いこと雌猫となんて話してなかったからか、慣れていない。慣れていたら、気の利いたことを言えるような余裕ができるのだろう。これはこれで、俺らしいと言えば俺らしいが。
「あ、あの……お二方、お家へ帰りませんか。外は暑いですし」
 気まずい空気を振り払うように、小雪が明るい声で言った。
 マロンもそれと同じように明るい声で賛同する。
「俺も良いのか」
「勿論! 最初からそのつもりだったし」
 マロンの言い回しに少し引っ掛かりを覚えながらも、口には出さず先を歩く二匹について行った。




「おかえりなさい。小雪ちゃん、マロンちゃん」
 公園からそう遠くはない丘の上。日当たりも風当たりも最高の場所に、その屋敷はどっかりと腰を下ろしていた。
いかにも、金持ちの屋敷。あの男のボロ家とは比べ物にならない。見たものに反応してそこまで表情を変える性ではないが、今回ばかりはその屋敷を見上げてぽかりと口を開けてしまった。
 出迎えた和服の女性に“ちゃん”を付けられて呼ばれた小雪とマロンは、遠慮をせずに屋敷へ入っていこうとする。
 二匹の遠くなる背に慌て、微笑んでいる和服の女性を横目に足早にその後を追った。
 こんな所に入ってしまって良いのだろうか、俺は……。




 ピカピカに磨き上げられた廊下を、猫三匹が行く。その内二匹は悠々と、残り一匹はおずおずと。
「こっちだよ」
 二匹に案内されたのは、心地良い香りにふかふかの毛布、沢山の玩具に爪やすり、トンネルや猫タワーまである部屋で。俺はまた口をぽかりと開ける破目になった。
 ここは楽園か。
「僕と小雪ちゃんの部屋」
 まだ開いた口が塞がらない俺に、照れ臭そうに笑ってマロンが言う。
 “僕と小雪ちゃんの部屋”。二匹はこの豪勢な家の豪勢な部屋で、一緒に暮らしている――つまりはそういうことだ。ここへ向かう時に感じた引っ掛かりは、確信へと変わった。
「……結婚は」
「……先月に……」
「…………」
 俺は一体何度口を開ければいいんだ。いっそ顎を外せと、そう言うのか。
「俺は、お邪魔で」
「そんなことないって! ね、一緒に暮らそ! ここ良いとこだし、ご主人も良い人だし」
「そうですよ、セイさんの怪我もここの方がよく診てもらえますよ……!」
 誰がそんなこと。新婚ホヤホヤラブラブのところにもう一匹雄が入っていけるか。嫌味か、嫌味なのか。いや、素だな……。
 とりあえず、無理だ。俺にそんな趣味はないし、余裕もない。それに、今現在俺の世話をしてくれているあの男のこともある。
 ありがたい話ではあるけれど、俺はこの屋敷に住まうべきではないと思う。
 ……待て。怪我? 怪我とは、何だ。俺は何か怪我をしていただろうか。
「脚、まだ痛いんじゃないの……? 引きずってる」
 真面目な顔になったマロンが言うのは、脚のこと。
 言われてみれば、気付いた頃から右後ろ脚を変な風に引きずっていた。普通に歩くと痛かったから、ただそれだけで理由もわからずに。
「痛い、けど……なんでだ」
「やっぱり……覚えてないんだ」
「事故か何か、か」
「うん……」
 なんとなく、そんな気はしていたんだ。事故という程の大層なことがないと、記憶など失わないだろうから。
「全部話してくれ、もう何を聞いても混乱はしない」
「……わかった」
 俺も声のトーンを落として真面目に言えば、マロンは苦笑しながらも頷いた。
小雪が言うには、マロンもそのことを話すのは辛いらしい。
 その日。大切な友人が、車に撥ねられて大怪我をし、なんとか一命はとりとめたものの、自分のことも今までのことも全て忘れ――怪我も完治しないうちに、自分には何も言わずに目の前から消えていったのだから。
「……心配したし、怖かった」
 部屋に備え付けられていたふかふかのクッションの上で、頭が痛むような話を聞く。
「撥ねられた直後なんてさ、君、一度は行きたいって思ってた天国ってのに行けるとか、血だらけなのにさ、冗談ならないこと言ってさ……!」
「……ごめん」
「あ、……ううん、いいんだ。こうやって今話せてるから」
 俺の謝罪の言葉に、はっとしたように明るく笑ってみせるマロン。その笑顔も、今は痛々しく思えた。




 耳をつんざく高い音。何かが地面を擦る音。何かが潰れる音。
 ――――――セイ!!
 友人の声。
 ――――――。
 轟音と共に、自分を撥ね上げた巨大な怪物は去っていく。
 体が酷く痛んだ。下半身に至っては感覚もなく、尾さえ動かせない。
『セイ、しっかり、ねえ!』
 聞き慣れた友人の声が、遠くに、酷く雲って聞こえる。
 死ぬのだろうか、俺は。
 あんな、訳のわからない怪物に殺されるのだろうか。
 人は、死んだら天国という所に行くらしい。公園に散歩に来ていた老人達が穏やかに笑いながらそう話していた気がする。どうやら、幸せな場所らしいのだ。
 猫はどうなのだろう。
 俺は、その天国とやらに行けるだろうか。
 いつかに死んだ知り合いにもそこで会えるのだろうか。
『……何言ってんの。馬鹿じゃないの、そんなとこ行かなくていいから、だから』
 だから――――。
 ふ、と視界が急激に狭まった。
『――――!』
 許せよ、俺だって好きでこうなってるんじゃないんだから。
 いくら泣いたって、叫んだって、怒ったって、仕方のないこと。
 だから、何だって?
 …………聞こえないよ。




「すんごい危なかったみたいなんだけど、その後近所の人が電話でお医者さんを呼んでくれてさ……なんとか助かった時はもう嬉しくって。でも……」
「でも、意識を取り戻した時には記憶はなかったと」
「……うん」
 成る程、そういうことらしい。
 でも何故俺はその後あの男の家に辿り着いたのだろう。記憶がなかったとしても、自分に良くしてくれるマロンと一緒にいることにデメリットは無かったはずだ。もしあったとしても、それ以外の選択肢は危険過ぎるように思える。
それなのに、わざわざとマロンの前から姿を消し、あの男の家へ辿り着いた。……自分のことだというのに、何を考えていたのかわからない。記憶を失くすというのは、こういうことなのだろうか。
「でもさ、こうやってまた僕と君は一緒にいる。良かったって思うよ」
「……ああ」
 いや、わからなくてもいいのかもしれない。
 あの時の俺はあの時で終わりだ。俺は今、大切な友人のことを思い出した。過ごした時間を網羅して思い出した訳でもないが、それは記憶というものの定めであり仕方がない。
 マロンが言うように、良かったとも思える。
 だから――――。
「マロンさん、セイさん。お食事をもらって来ましたよ」
 と。
 俺の考えを打ち切るようにして、しばらく席を外していた小雪が良い匂いを連れて戻ってきた。傍らには、先程玄関先で出 迎えてくれた女性。その手には高級そうな器が三つ乗ったお盆があった。
「え? あっ! まぐろネコカン!」
「何だ、それは」
「美味しいんだよ! 食べてみればわかるって」
「俺も良いのか」
「あはは、また言ってる。良いんだよ」
 微笑むマロンと小雪、そして女性。俺はその温かさを甘受した。




 結局その後、マロンと小雪のしつこい誘い……いや、俺を思った優しさを断れずに、あの屋敷に住まうこととなった。
 新婚ホヤホヤだというのに、あの二匹は気にする性でもないらしい。それに、俺が小雪にどうこうするという心配がないからとも言っていた。まあ、それは確かに心配ないだろう。小雪は美人だが、マロンという相手がいるのなら俺がすることは何もない。ただ、同居人として仲良くするだけだ。
 ちなみに二匹の主人はかなりの猫好きらしく、マロンと小雪の友達ならと、俺の世話をするということも快く了承してくれたらしいのだ。
 二匹はまるでわかっているかのようにその主人と話して、俺の紹介をした。ちゃんと伝わるように話せば簡単だとは言われたが、俺には無理らしいことだった。
 何故って、俺はしばらくあの男と暮らしていてもまともなやりとりなど一度もできなかったのだから。
「……あ」
 俺は今、飼い主ができたことを報告しにその男の家に来ている。
 首には、新品ツヤツヤの青い皮の首輪を付けて。装飾にはマロンと小雪とお揃いの宝石、ネームプレートには“セイ”という 文字と迷子になった時のための連絡先が彫ってあるものだ。
「凄い高級そうな首輪。セイっていうのか? ……飼ってくれる人、見つかったんだ」
「世話になったから、お礼を言いにきた。ありがとう」
「もう、ここには来ない?」
 きっとこれが最後であろう、男との“通じない”会話。名残惜しさはあれど、あまり長居をして別れるのが辛くなるのは望ましくない。早々に切り上げて帰ってしまおう。
 家で、友人とそのお嫁さんが笑顔で待っているから。
「じゃあな。お前も元気でやれよ」
「あ、待ってよ、俺っ、お前のことちゃんと――」
 振り返って改めて男を見ると、手に新品の青い首輪――それも、かわいらしい何かの花の模様がついたものが見えた。しかし、それはすぐ男の背後に隠されてしまう。
「あ、……ううん、ごめん、いいんだ。良かったよ、飼ってくれる人が見つかって」
 ふにゃりと笑う男も、どうやらことの次第をわかってくれたらしい。
 背を向けていたのを男の方へ向き直り、俺は感謝の由を込めてその脚に擦り寄った。……ここ最近で嗅ぎ慣れた匂いがする。
「もう、さ……そんなことするなよ、寂しくなるじゃんか」
 喉を撫でる男の手は、相変わらず優しい。
 ころころと喉を鳴らせば、男の眉がだらしなく八の字に下がった。また、“かわいい”と呟いている。その言葉の意味も、もう知る必要はないだろう。
 ひとしきり撫でられた後にゆるりと身を引いて一声鳴き、振り返らずにその場を去った。
 背中に、視線を感じながら。




「おかえり。お別れ、言ってきた?」
「ああ」
 屋敷に帰ると、思った通りにマロンと小雪が笑顔で迎えてくれた。それに、新しいご主人も一緒に。
 出迎えられた懐かしいような初めてのような感覚に、胸がほっこりと温かくなったというのは、無論口には出さない。きっとこれからは、これが当たり前で幸せだということ。
 これでほっこりしていたら、他のことではほっこりどころではなくなってしまうかもしれない。
 まあ、それも嬉しいことに違いないが。
「寂しくないです……? 会いに行けばいいじゃないですか、これからだって」
「いや、いいよ。今までだって別に飼われてた訳じゃないんだ」
 主人が用意してくれた、頬の落ちるような味のまぐろネコカンを食みながら話した。
 ここに住まうことを勧められた日に食べたそれは、すっかり俺の好物だ。マロンが勧めていたのも頷ける。
「それにしても、よく俺のセイって名前わかったよな、ご主人は」
「ああ、公園でそう呼ばれてたから結構簡単にわかるんじゃない? 僕のマロンって名前も、公園に来てた女の子につけてもらったやつだし」
「……私の小雪というのはここのご主人が付けてくださった名前ですので、少し憧れます、横文字の名前」
 そう言う小雪に、「小雪ちゃんは小雪ちゃんがいい! 俺はそのままの小雪ちゃんが好き!」……だとか、ダイナミックに告白しているマロンに少し心を和ませる。
 そんな言葉に純粋に頬を赤らめて喜ぶ小雪の反応も微笑ましいものだ。
 いつの間にかマロンが自分のことを俺と呼ぶようになったのは、自信がついたという表れだろうか。こいつも、俺の記憶が無いうちに少しずつ変わっていたのだろう。
「……横文字の名前にするとしたら、スノーとかベルとかが似合いそうだな」
「あっ、それ可愛い」
「マロンさんったら」
 口を開けば自然と笑みが零れる、そんな会話をしたのは記憶を失くしてから初めてかもしれない。
まあ、言葉にする程俺は笑えてはいないと思うけれど。……きっと、頬の筋肉が鈍くでもなっているんだ。これから嫌でも緩くなるさ。
「マロンさん、セイさん! お庭で遊びませんか、広くて散歩するだけでも楽しいんですよ」
「ああ、……そうする」
「――あ、セイ待って、ちょっと話が」
「?」
 何だろう、突然改まって。
「セイが撥ねられた時に俺が言ったこと、覚えてる?」
「……天国とか冗談言うなって?」
「ううん、その後」




『……何言ってんの。馬鹿じゃないの、そんなとこ行かなくていいから、だから』
だから――――。




「……ごめん、聞こえなかったんだ、朦朧としてて」
 そう謝ると、変に表情を勇ましくしたマロンが向き合うようにこちらを見つめてきて。
「じゃあ、もう一回言う。……えっとね、だから……これからも友達でいてほしいなって」
 それは、さらりと耳を通ってすとんと胸の奥のどこかに落ちる、心地の良い言葉。
「……随分、あっさりしたもんだな。友人が死にかけてる時に」
「その時は死なないでって意味で言ったの。ね、流石に断ったりしないよね?」
「そりゃあな。あと、それこの前俺も言おうとした」
「えっ」
 本当は、記憶を失くす前からずっと思っていたこと。
 ここに住まうことを勧められた日、だから、と言いかけて結局言えなかったこと。
 当たり前のようで、大事なこと。
「これからも友達で、いてほしい」
「……うん」
 ぎこちなく喉の奥から搾り出したその言葉に、マロンは笑って頷いた。
「結局考えてること同じじゃないか」
「あはは、ほんとだ」
「おっかしいな」
 久しく腹の底から笑って、そのまま庭へ駆け出した。
 蝶を追いかけていた小雪にもその言葉をかければ、当たり前じゃないですかと言って明るく笑ってみせる。
 ここで、友人達と一緒なら、退屈さえ幸せに感じられる――そんな気がした。