龍悟の葛藤のお話。台詞なし。


 あの人が嫌いだ、とは言いきれない。
 少し前の俺は真っ白だった。俺が生まれて初めて目にしたのがあの人で、真っ白な俺に最初の色をぽつりと付けたのも、あの人だった。
 あの人は、生まれたばかりで脆い俺によく話しかけてくれる。俺は沢山の声の中に放り出されると訳がわからなくなってしまうから、話すことができるのはあの人だけだった。
 ただのぽつりだったあの人の色は次第に広がって、体も心も埋め尽くした。それ以外に何色も無かったから仕方がないと思う。あの人が他の色を許さなかったからだ。俺も、他の色に染まりたいとは思わなかったからだ。
 染まりきった俺を見て優しく微笑んだあの人は、他の色を許した。ただ一つの印を僕に与えた後、沢山の声の海へ飛び込むことを許した。既に一色に染まりきった俺が、他の色に揺れることなどないと確信していたからだ。俺も、他の色に染まりたいとは思わなかったからだ。
 実際に俺は、沢山の声の中に放り出されても訳がわからなくなることはなくなった。他の色に染まることもなかった。例えそうなっても、すぐにあの人が手を引いて戻してくれたからだ。もう大丈夫だと思った、けど。
 小さなぽつりが、まだ俺には残っていた。あの人の色ではない、僕の色。それは最初からそこにあったのだ。真っ白があまりに眩しいので今まで気づかなかったのだろうが、いざあの人の色に染まりきった今改めて見ると、それは目立っているように思える。
 あの人の色は、沼の底に溜まった汚泥のような錆。僕の色は、無彩に近いあの日の雨粒。あの人の色が全てを飲み込もうとして、それを小さな僕の色が拒んでいる状況。
 それに気がついた俺は、頭の中を好き勝手掻き回されたように気持ちが悪くなった。
 あの人が嘘を吐いているのも、薄っぺらい演技も、そのずっと奥の強い意志と本心も、俺はぼんやりと感じ取っていた。あの細い首を強く締めつけて息を詰まらせてやりたいと思うほど、僕があの人を嫌っていることも、俺はぼんやりと感じ取っていた。
 あの人が嫌いだ、とは言いきれない。
 小さな僕自身と、あの人で染まった俺とは、考えることが根っこから違うのだ。
 最期に遺された小さな僕を、早く飲み込んでくれはしないだろうか。
 そうすれば俺はきっと、あの人が嫌いだなんてぽつりとも思わなくなるから。